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助けてあげたいと思って嫌われた 同情されたくない人に寄り添うには

助けてあげたいと思って嫌われた 同情されたくない人に寄り添うには

失恋した時とか大切な人をなくしたような時に 知人が同情していろいろなことを言ってくれるのに激怒してしまったと言う話を聞いたことがあります。

表に表さないイライラを感じながらも相手が良かれと思って言ってくれるのはわかるので嫌な顔をするのも大人げないと思って飲み込んでしまっておられる方はもっと多数いらっしゃると思います。

コミュニケーションは受け取り手を主体に

またそのことに対して相手がこんなに一生懸命言ってくれるのにそれを受け取れない自分が心が曲がっているのだろうかと罪悪感を感じる方さえおられます。

しかしこれは100%言った本人に責任があると思います。

コミュニケーションは受け捕り手を主体に考えなければなりません。
これは、そうあるべき、というより、受け取ってもらえなければ、発信した方の用もたりないからです。

同じ事を言っても、喜ぶ人もいれば、怒る人もいる。
そんな中で、相手に自分の意図した所を伝えていくのが、コミニュケーションだと思います。

自分がどんな受け取り方の癖を持っているか、学んでいく事も心のトレーニングとしては大切な事なのですが、実際のやり取りの中では、発信するものが主導権を握る事になります。

キャッチボールに例えるならば相手が取りやすい球を投げることが必要になります。
それでも、デッドボールを放っておきながら当たるところにいたあなたが悪いと言ってるようなコミュニケーションのスタイルがしばしば見られます。

どんな言葉でも上手に受け取って、投げた側の本人も意識していない気持をくみ取って返答を返してくれる人は特別な能力を持っているか、何年ものトレーニングを積んできた人です。
だから、聴くが仕事になる世界があるのです。

自分が、不快感を感じたコミュニケーションは不快な物と感じて良いのです。

たとえ善意のつもりでも、相手の気持ちも汲んでいない稚拙なものなのです。そこに不快感じる事に負い目を感じる必要はありません。

同情するとか励ますとかいった事は、良い事だとされています。

しかし、本当に相手が慰められて、力を得るように同情したり、励ましたりする事は難しいものです。

同情や励ましが難しい理由

同情には優越感も含まれている

その根底にある人を気の毒に思う気持ちや人を力づけたいと思う気持ちが否定されるわけでは無いのですが、そんな気持ちが生じるときは必ず関係性に上下が生まれています。

同情は幸せのものが幸せにないものに対して感じる気持ちであり、励ましたいと言う思いは強者が弱者に感じる想いでもあります。

自分がただでさえ辛い状況にあるときに、相手が優位である事を見せられて快く感じる人はいないのではないでしょうか。
かわいそうと感じる人は、その人よりは自分が良い状態だと感じているにしてもだからこそ自分が何かやれることがあるのではないかといった善意があるものだと思います。

しかし辛い状況にある人はそこにある自分が優位だと言う感情に対する部分に反応してしまうことは当然だと思うのです。

自分の優越感も認めていく

人をかわいそうだと思った時に思ったがまずその自分の中にある相手よりも自分が優位に立っていると言う感覚をチェックしてみることが必要になってきます。

これは自然なものですので否定する必要はありません。
否定して乗り越えたような気持ちになる方が危険な気がします。

私はそのような状態でなくてよかった、そのことを幸せと思っている。そんな自分もいるよね、いて当然だよねと自分で言ってやることです。

被災地の人に同情する気持と、今回は難を逃れた事への安堵感は矛盾するものではありません。
難を逃れた事を喜ぶ気持に自責を感じなければならないわけではありません。

気の毒だという気持も、安堵感も両方の気持を見ていると、自分の次の行動がおぼろげながら見えてきます。

少なくともそれはあなたがかわいそう、と言った言葉にはならないような気がします。

力になれることがあったら言って下さいと言うのも良いのですが、それも言葉が先行して空回りしそうな気もします。

黙っている事も大切なサポート

そんなときには、何も言わずに見守るといった行動になることも多いように思います。 それが結局、1番喜ばれたりすることも多いものです。

悪性の病気を宣告されたり、身内の人を亡くされた方とりわけ事故なので急に亡くされたような場合にかけることがないと言うのはまっとうな感覚だろうと思います。

自分が何か言えばこの人が元気になってくれるかもしれない、と思うこと自体自分の力を過大評価しすぎるしすぎているかもしれないと言うことが頭に置いてみることも必要になってきます。

カウンセラーやセラピストといったコミュニケーションのプロとして訓練を受けたものでもお金を取らないと成立しないコミュニケーションがあります。
お金を頂くと言う事は私はあなたに助けを求めていますということの証だからです。

助けを求めていないものに対して的確な助けを提供することは、難しいことだと思わなければなりません。
往々にして提供する側の自己満足に過ぎないことが多くなります。

その可能性がないかと言うことが自分の中でしっかりチェックをした上で次の行動に移っていただきたいと思うのです。

自己満足全般を否定するわけではありませんが、相手の状況が辛いほどその辛い状況を自分の満足のために利用されることに対しては人は敏感になります。

同情心の強い人は、相手の辛さをある意味利用して自分が満足することを、やりたいと思っているわけではないでしょう。
それでも、結果として、同じ事をやってしまっている事はしばしばあります。

慰める、励ますだけが援助ではない

それでも辛い状況の方のために何かをやりたいと思われる方方はいらっしゃることと思います。そんな方のためにいくつか提案をしてみたいと思います。

1つは心そのものに触れない形でお手伝いをしようとすることです。
葬儀等の場合、下手な慰めを言われるよりも事務的なことを処理してくれる方が大切になることもあります。

その後も、その人がいなくなったお部屋の整理などに人手が必要なこともあります。

全く知らない人には頼みづらい事であり、故人の思い出話などをしながら後片付けを手伝ってくれる知人は貴重なものです。そんな時辛いでしょう、寂しくいいでしょうと言った言葉はむしろ邪魔です。
語られる事を受け止めながら、作業を主体にお手つだいしていった方が良いと思います。

災害に遭われた方への傾聴は必要なことではありますが、中途半端な傾聴ボランティアが被災地で迷惑がられていると言うエピソードは重く受け止めなければなりません。

黙って土砂を運ぶようなお手伝いの方がありがたいと思われます。そんな中で辛い気持ちが言葉に上がってくるときはしっかり受け止めれば良いのです。
自分が聞いたあげれば楽になるだろうと、聴きたがるのは、思い上がりです。

励ましの言葉と言うのもとても難しいものです。人が何か言われたからといってそれが力になって早く立ち直ることができるわけではありません。特に大切な方を亡くされたような状況に対して早く立ち直らないと個人が悲しむといった励ましは傷をえぐるようなものです。

悲しいね、辛いね、言うスタンスで黙って一緒にいることの方が励ましにはなるのですが、言葉にしてみては空回りすることもあります。

自分が何かしてあげたいといった気持ちはそれ自体が悪いものでは無いのですが、所詮そんな気持ちでいる間はサポートにはならないと言う事は頭に置いておいた方が良さそうに思います。

共感とは相手の気持ちをあたかも自分が感じているように感じることでコミニケーションのスキル、姿勢としては大切なものだと言われています。

それでも一般に言われている共感は、共感することによって相手に満足してもらったりこちらを信頼してもらうと言う代償を求めているもの。

それを超えた本当の共感が必要なことがある。
相手が共感することを受け止めることができないような状態にあって、共感する側の気持ちを跳ね返してくるような時でも相手の気持ちを受け止め続けていくことが本当の共感なのだと私は教わりました。
これはプロの心理職としての姿勢を言ったものですが本当に大変な状況に本気で寄り添うとするならば同じような姿勢が必要になってくると思います。

何かを言うことで相手が満足して慰められて、慰めてくれたものへの感謝を感じる。

結果としてはあって良いとは思いますが、それを期待している間は本当に大変な人の思いに寄り添うことは難しいのかもしれません。

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